すぐれた組織とだめな組織は紙一重

組織を表現するものとして、規律の取れたというものがある。号令一下、組織全員が指示のもと決まった行動をとるというものだろう。これは優れた組織といえるだろう。一方自由な組織というものがある。個人が自分の裁量で必要だと思う行動を取るというものだ。これも優れた組織だろう。

どちらがより優れたものなのだろうか。どちらもが成り立つだろうし、どちらもが限定的である。指導者である他者の命令に基づいて行動するということと、自分の考えに基づいて行動するという、相反することが成り立つし、うまくはいかないというのが組織の面白さだ。

ただ、おのおのが成立して結果を出すための条件として、情報がオープン化されている必要がある。

指導者が正しい命令をするには、個別の状況を把握していないといけないし、個人が必要だと思われる行動をするには、自分のことだけではなく全体のことを理解しなければならない。個別最適か全体最適化という議論と同じく、昨今のシステムの考え方を巡る考えとも共通する。つまり統合するのか、分散した方が効率的かということにもなる。

全体を見た上で個別のことを考えるのは二律背反している。あちら立てればこちらたたずということだ。どちらかを優先するのではなく、全体のことを考えつつ、個別のことを立てるということになる。個人に現時点でのすべての情報を開示すれば、また指導者がおなじく現時点でのすべての情報を持っていれば、極めて合理的な行動を取るであろう。

合理的な行動を取れず意思決定が曖昧となるのは、つまりは情報の質と量そして時間に格差があるからである。限定されているという情報を前提とすれば、できるだけ現時点に近い多くの情報を各人が掌握して個別の判断に基づいて行動すれば良いということになる。

情報を開示もせず個人に自由に行動させる組織の行方は悲惨である。また指導者が限定された情報だけで行動する組織も哀れである。指導者も個人も善人であり、組織のことを思えば思うほど悲しい結果がうまれる。情報の開示と扱い方がまずは大切なこととなる。

メーデーの価値を問い直す

5月1日はメーデー。労働者の祭典だが、労働組合自体の弱体化とあいまって、年々その性格が変わっている。昨今では賃金面での闘争というより、働き方改革を求める声の高まりということがあげられ、家族が楽しむ要素も増加している。

昨今の日本の雇用情勢は、世界的な比較では賃金の停滞感があるが、それでも一定の生活レベルを確保できるくらいにまでいたっている。非正規社員の雇用と賃金並びに時間などの水準の見直しは、同一労働同一賃金という文脈で見直しが図っていくと思われる。

使用者に対する労働者という視点で言うと、大きな声を上げるまでもなく、個人が主張できる下地が整ってきている。たとえばパワハラ・セクハラが大きな問題として取り上げられるようになっている。従来、問題が覆い隠されていた分野に焦点が当たることは極めて健全なことだ。労働者が集団で取り組まなければ、使用者に一ひねりされて解決の糸口も見えなかったのに、個人がSNSなどにより一個人~労働者として声を上げられるようになり、それを周囲が間接的も支援できるということだ。

集団でなければなし得なかったことが、個人の発言力が高まると、反比例して集団の力が落ち、労働者が集いが不要化していく。各人の思いを集約して共通化すると、集団の存在目的は本来、現世的であるから集っているはずなのに、曖昧かし長期的な幸せの獲得というように存在理由が曖昧化していく。個人がいろいろいうのでかえってそのとりまとめたものは方向性が見えなくなる。個人がなにも考えを持たない、あるいは賃上げなどと目的が純粋化している場合には、集団の目的は立てやすいし集合する意味がある。

その組織に縛られる必要がないということが、最も優れた集団維持策という矛盾をはらんでいるのが、21世紀の労働者の集まりだ。現在の労働組合の悩みはそこにあろう。使用者の意志やねらいと同一化してしまうことで、集団に頼る必要がなくなる。組合活動の限界があるし、組織化率の低迷の理由ともなる。

労働という言葉を考えると、そもそも労働は苦役なのかという問題に突き当たる。働くことは、義務だとされるが、一方で自己実現のための大きな要素でもある。仕事ととらえるのか、人生としてとらえるのか。そんなのんきなことを考えられるのも、労働を選択できる時代であるということだからだ。現在は強制された労働からの脱却の時代なのだ。春真っ盛りであり初夏を感じるこの季節、メーデーという労働者の祭典日を、切り開いた先人達に感謝する日という視点で考えることも重要なのだろう。