令和の世、始まります

新元号の「令和」を英語に訳すと” beautiful harmony “だと日本政府が発表しているらしいですね。世界が不安定で、グローバル化する中で独自性を強めている時代の中でいかに多様性を訴えることが出来るか。

資源がない国で地球環境に貢献し、価値を高められるか。世界に必要とされるための一歩を積極的に踏み出していくというのが、新しい令和という使命だろうと思います。自分自身も少しでも社会に役立つように、これまでの知識と経験を活かして、大いに変革を図りながら取り組んでいきたいと考えます。

8回目の3月11日

半世紀を生きてきた歴史の中で、最も衝撃的な出来事は東日本大震災である。頭の中では起こりえると考えていたけれど、実際に目の当たりにすることはないと思っていた。

自然の大きさに比べると、人間のあまりの小ささに嘆きを感じた一日だった。

それから8年が経過した。記憶があいまいとなっていく過程は、次に進むために必要なことなのだろうが、事実は消えることは無い。そして身体の中に染みついている、敬虔な気持ちは薄れることはない。

合掌

難しくもおもしろい時代です

オープンイノベーションの時代です。多様化を推進し、さまざまな知恵を取り入れることで生まれるものが多いと考えられます。いろいろな人を取り入れなければなりませんが、ある一定の基準が求められるのは当然のこと。ガバナンスとコンプライアンスが必須です。

人事やマネジメントの世界では、自由裁量を多くすることがやる気を高め、結果を生み出すことにつながります。当然すべての面で自由が認められるわけではありません。管理が必要です。

管理強化は自由と相容れぬこと、自由は規律と相性が良くない。この狭間の中で、大いに悩んでいる時代です。

管理していると感じさせない管理というのは、壁がないようだけれど整然とした壁が存在するという無意識下の管理体制になるのでしょう。

ただ檻が見えないけれど、限定された範囲内での自由であるという理解は、どのような影響を人に与えるのだろうか。自由に振る舞って良いけれど、それは限定された枠の中だけのこと。それ以外については禁止となるのかもしれない。

両者のバランスをとりながら、マネジメント改革を進めていく必要がある。従来のすすめ方に追加すべきであり、解除も必要ということ。面白い仕組みが登場する前夜といった趣です。楽しみが増えます。

スポーツの指導ということ

ある土曜の夕方、電車で移動中、とある駅でスポーツウェアに身を包んだ大柄な男性が三名乗り込んできた。これから飲み会なのだろうか楽しげである。耳に飛び込んでくる会話から関係がわかってきた。少年野球のコーチのようだ。今日は誰が来るんだろうかと男三人でも姦しい。

そのうち、一人の選手の話になった。今日は試合に出ていなかったようだがどうしたという問いかけに、一人が応えたところによると体調不良が理由だという。実は先週の試合、その選手は走塁でゆっくり走ってチャンスを潰してしまった。そして今日は名誉挽回とばかりにライトオーバーのヒットを打った。さすがにランニングホームランにはならないとおもっていたが、三塁コーチの制止を振り切ってホームに突入して結果はアウト。2週連続の走塁ミスで、そこにはいない別のコーチに叱られたのだ。じつは三塁コーチの制止も動作が小さくて、曖昧なコーチングだったのだが、叱られたのは選手一人だった。このあたりになると耳ダンボである。

そのコーチは彼には期待している。いいもの持っている。だから、いまやるべき基本動作にしっかりと取り組まないといけない。将来のことを思うと、いま対応しないと癖。彼の為なのだから、厳しく指導する方針を曲げるつもりはないと宣言したという。

そんなこんなの今日。選手は右足の甲が痛いので、練習に参加できない言ったという。本当に痛いのかどうかはわからないのだけど、まあいろいろあるからね…とすこしだけ話を続けたあと、今日の飲み会に話を変えていった。

思わず聞いてしまった話から、いろいろな感情がわいた。たった数分の会話であり、すべてを網羅しているわけではないし、また後日談もあるだろうけれど、昨今のスポーツ界で、いろいろと問題が起こっている理由の一つは、こういった教える側の論理が影響しているのだろうかと考えさせられた。

感じたのはコーチ同士がいいたいことを言えないチームで野球はしたくないなということ。選手が来週から練習に参加してもしなくても、一連の行動をコーチは良いことだと確信したままで、今後も同じような行動をする可能性が高い。そのことを周囲がまずいと感じているのに、そのままにすることがあたりまえのチームは果たしてどうなのだろうか。

またコーチが上目線であることも気になるところだ。教える側が専門性で圧倒的に優位だったとしても、立場が上であるわけではないことを理解していないのではないだろうか。たった一言で取り組みをしなくなってしまうこともあるだろう。たとえ相手のためだと思っていたとしても、逆らえない相手に一方的に厳しく接するのはパワハラだ。

それにしても、教えるとはなかなか難しいものです。

風水害への対応

2018年という年は、災害が多かった年として記憶されるのではないだろうか。

大阪北部地震、岡山や広島など西日本広域豪雨災害、台風20号そして21号、その2日後には北海道での地震発生。

大阪北部地震は今まで想定されていなかった地域での直下型であるし、風水害被害が比較的少ない地域といわれてきた岡山での水害、そして台風21号に至っては第2室戸台風以来50年ぶりの巨大なもので、関空をはじめ各地に大きな被害をもたらしている。

台風21号での対応では、安全を優先した対応が功を奏した。一例を挙げるとJR西日本は台風が直撃する前日から列車の運休を決めいちはやくアナウンスした。一つの引き金となり、当日臨時休業する機関や組織が多かった。

また台風の被害がこれだけにおさまったのは、進路と強さを予測したシステムが機能したからだ。先が見通せるものについては、ある程度対応が可能ということを実感させられた。結果的に猛烈な風の影響で、停電や建物被害などがあったものの、対人的な被害が少なかった。電車の運休がなく街に人手があふれていたとしたら、半端ない数の死傷者が発生した可能性が高い。陸地に近づくと勢力を落とすことが多い台風になれている方からは、過剰反応だという意見もあったようだが、危機を見越して対応した英断は賞賛されるべきだろう。

地球温暖化も影響を与えているのだろうが、日本列島全体が亜熱帯化しているかのような暑い夏であった。一段落するとは思えず、これからますます大きな問題が発生するかもしれない。常に備えるという心構えと、万が一発生したときに我が身を守る対策が必要である。

歴史的な猛暑もようやく落ち着いてきた

今年の夏はほんと暑かった。40度なんていう信じられない記録的な暑さが日本の各地で生まれた。冷房をつけて寝る習慣が身についてしまった。それでも、ここ数日、朝晩は虫の声が聞こえるようになってきた。

いつまでも同じ事が起こるはずもなく、変化は少しずつ訪れるものだということを実感する。

それでも残暑は厳しいのだろうけれどね。ご自愛ください。

メーデーの価値を問い直す

5月1日はメーデー。労働者の祭典だが、労働組合自体の弱体化とあいまって、年々その性格が変わっている。昨今では賃金面での闘争というより、働き方改革を求める声の高まりということがあげられ、家族が楽しむ要素も増加している。

昨今の日本の雇用情勢は、世界的な比較では賃金の停滞感があるが、それでも一定の生活レベルを確保できるくらいにまでいたっている。非正規社員の雇用と賃金並びに時間などの水準の見直しは、同一労働同一賃金という文脈で見直しが図っていくと思われる。

使用者に対する労働者という視点で言うと、大きな声を上げるまでもなく、個人が主張できる下地が整ってきている。たとえばパワハラ・セクハラが大きな問題として取り上げられるようになっている。従来、問題が覆い隠されていた分野に焦点が当たることは極めて健全なことだ。労働者が集団で取り組まなければ、使用者に一ひねりされて解決の糸口も見えなかったのに、個人がSNSなどにより一個人~労働者として声を上げられるようになり、それを周囲が間接的も支援できるということだ。

集団でなければなし得なかったことが、個人の発言力が高まると、反比例して集団の力が落ち、労働者が集いが不要化していく。各人の思いを集約して共通化すると、集団の存在目的は本来、現世的であるから集っているはずなのに、曖昧かし長期的な幸せの獲得というように存在理由が曖昧化していく。個人がいろいろいうのでかえってそのとりまとめたものは方向性が見えなくなる。個人がなにも考えを持たない、あるいは賃上げなどと目的が純粋化している場合には、集団の目的は立てやすいし集合する意味がある。

その組織に縛られる必要がないということが、最も優れた集団維持策という矛盾をはらんでいるのが、21世紀の労働者の集まりだ。現在の労働組合の悩みはそこにあろう。使用者の意志やねらいと同一化してしまうことで、集団に頼る必要がなくなる。組合活動の限界があるし、組織化率の低迷の理由ともなる。

労働という言葉を考えると、そもそも労働は苦役なのかという問題に突き当たる。働くことは、義務だとされるが、一方で自己実現のための大きな要素でもある。仕事ととらえるのか、人生としてとらえるのか。そんなのんきなことを考えられるのも、労働を選択できる時代であるということだからだ。現在は強制された労働からの脱却の時代なのだ。春真っ盛りであり初夏を感じるこの季節、メーデーという労働者の祭典日を、切り開いた先人達に感謝する日という視点で考えることも重要なのだろう。

私の履歴書 高田明氏

なんどかブログで取り上げたが、日経新聞朝刊に掲載の「私の履歴書」は、楽しみの一つだ。経営者や各界の著名人の生き方を一つの角度から理解することが出来る。毎月年に12名だが、読者になっておよそ30年以上だから少なくとも300名以上の歴史を読ませていただいたことになる。

平成30年4月に登場しているのは、ジャパネット創業者の高田明氏だが、他の方とは変わっている。22回目あと8回を残して、もはや会社から引退した。これは異質なことだ。

私の履歴書に登場する経営者の方の多くは、最後の最後まで話を引っ張って、最終回に仕事が一区切りついて、財界活動をして、家族にお礼を言うというのが一つの形である。感謝をしつつも、驕慢さがうっすら透けて見える。自分で無ければという気持ちからなのか晩節を汚す例もある。

老子にある「功成り名遂げて身退くは天の道なり」ということを体現するのは難しくて、身を退けないのも一つなのだ。信頼できる人に委ねて、それが出来るのはなんと幸せであろう。あと8回の展開が楽しみだ。