メーデーの価値を問い直す

5月1日はメーデー。労働者の祭典だが、労働組合自体の弱体化とあいまって、年々その性格が変わっている。昨今では賃金面での闘争というより、働き方改革を求める声の高まりということがあげられ、家族が楽しむ要素も増加している。

昨今の日本の雇用情勢は、世界的な比較では賃金の停滞感があるが、それでも一定の生活レベルを確保できるくらいにまでいたっている。非正規社員の雇用と賃金並びに時間などの水準の見直しは、同一労働同一賃金という文脈で見直しが図っていくと思われる。

使用者に対する労働者という視点で言うと、大きな声を上げるまでもなく、個人が主張できる下地が整ってきている。たとえばパワハラ・セクハラが大きな問題として取り上げられるようになっている。従来、問題が覆い隠されていた分野に焦点が当たることは極めて健全なことだ。労働者が集団で取り組まなければ、使用者に一ひねりされて解決の糸口も見えなかったのに、個人がSNSなどにより一個人~労働者として声を上げられるようになり、それを周囲が間接的も支援できるということだ。

集団でなければなし得なかったことが、個人の発言力が高まると、反比例して集団の力が落ち、労働者が集いが不要化していく。各人の思いを集約して共通化すると、集団の存在目的は本来、現世的であるから集っているはずなのに、曖昧かし長期的な幸せの獲得というように存在理由が曖昧化していく。個人がいろいろいうのでかえってそのとりまとめたものは方向性が見えなくなる。個人がなにも考えを持たない、あるいは賃上げなどと目的が純粋化している場合には、集団の目的は立てやすいし集合する意味がある。

その組織に縛られる必要がないということが、最も優れた集団維持策という矛盾をはらんでいるのが、21世紀の労働者の集まりだ。現在の労働組合の悩みはそこにあろう。使用者の意志やねらいと同一化してしまうことで、集団に頼る必要がなくなる。組合活動の限界があるし、組織化率の低迷の理由ともなる。

労働という言葉を考えると、そもそも労働は苦役なのかという問題に突き当たる。働くことは、義務だとされるが、一方で自己実現のための大きな要素でもある。仕事ととらえるのか、人生としてとらえるのか。そんなのんきなことを考えられるのも、労働を選択できる時代であるということだからだ。現在は強制された労働からの脱却の時代なのだ。春真っ盛りであり初夏を感じるこの季節、メーデーという労働者の祭典日を、切り開いた先人達に感謝する日という視点で考えることも重要なのだろう。

私の履歴書 高田明氏

なんどかブログで取り上げたが、日経新聞朝刊に掲載の「私の履歴書」は、楽しみの一つだ。経営者や各界の著名人の生き方を一つの角度から理解することが出来る。毎月年に12名だが、読者になっておよそ30年以上だから少なくとも300名以上の歴史を読ませていただいたことになる。

平成30年4月に登場しているのは、ジャパネット創業者の高田明氏だが、他の方とは変わっている。22回目あと8回を残して、もはや会社から引退した。これは異質なことだ。

私の履歴書に登場する経営者の方の多くは、最後の最後まで話を引っ張って、最終回に仕事が一区切りついて、財界活動をして、家族にお礼を言うというのが一つの形である。感謝をしつつも、驕慢さがうっすら透けて見える。自分で無ければという気持ちからなのか晩節を汚す例もある。

老子にある「功成り名遂げて身退くは天の道なり」ということを体現するのは難しくて、身を退けないのも一つなのだ。信頼できる人に委ねて、それが出来るのはなんと幸せであろう。あと8回の展開が楽しみだ。

エープリールフール・ネタかな

4月1日、宝くじが当たったとかというたぐいの嘘をつくと、一年間そのことが叶わないジンクスがあるとか。願望を込めた嘘をついてはいけないということなのでしょう。

そうであるなら逆手にとって、ぜんぜん出来ていないなんて事をいえばよいのでしょうか。マイナスのことはできれば口にしたくないのですが、時には頭が混乱するくらいのことをつぶやくのもよいのかもしれません。

はなしは変わりますが、友人の一人から4月1日の0時を過ぎた頃に、この度昇進しましたというメールが入りました。すこし苦労をしていたと聞いていただけに、我が事のようにうれしく思いました。

確認したところ嘘ではなかったのですが、一瞬疑ってしまいました。人に伝えるにはタイミングが必要を感じた一日でもありました。

ところで、世界の景気悪くなって、働き方改革も進まないそうですよ。

これは、エープリールフールネタか、それとも本当に考えている内容か、どちらでしょうね?

ワークライフバランス

仕事と人生を楽しむというのは、ある意味理想とするところだ。
ただし、双方を楽しむとなると、非常に悩ましい。
働いて結果を出そうと思えば、時間を割かなければならない。いくら効率的に取り組んだとしても限界はある。

趣味や娯楽や旅行などを通じて人生を楽しむとなると、仕事に割ける時間が少なくなる。いわば二律背反の極みだ。

時間が有効な資源だとすると、どちらも大切にしようとなると、細切れ時間を使うか、睡眠時間を削るしかない。それも限界はある。

ひとつの解決策は、仕事の一部を余暇と考えることだ。そうなると両方楽しめることとなる。
もう一つは、人生の楽しみを趣味や娯楽や旅行などと考えないことだろう。それも仕事を人生の一部と考えることで成立する。

仕事が人からの強制であると考えれば、つらく逃げたくなる。仕事で人生を語ることが出来れば解消する。
仕事場と生活の場を一体化する。たとえば子育てが仕事場でも行えることが一つの解決策なのだろう。

そう考えると、現在の働き方は非常におかしなものと考えなければならない。切り分けることでの弊害があるのだ。
わざわざ職場に出かけて仕事することに問題がある。
われわれが一般的だと考えている働き方は、生産効率を高めるものだ。とくに製造現場などでの設備を使用した仕事の仕方を普通と考えているからだ。

少なくともオフィスワーカーは働き方を変えないといけないのだ。

リビングからパソコンが消える

先日のブログで家庭からテレビが消えると書いたが、もっと顕著な電化製品はパソコンだろう。タブレットのようなものでないと家庭には向かない。

大きな画面で見たいならChromecastなんかでテレビ画面に飛ばしたほうが見応えがある。パソコンは立ち上がりも遅いので、知りたい情報がすぐには見られない。不便きわまりない。そもそも家庭には、とくにデスクトップパソコンを置くスペースが想定されていなかった。お荷物きわまりなかったのだ。新聞などもネットに移っているのでタブレットが重宝だ。

家庭で仕事しようとするノマドワーカーでない限り、パソコン需要はなくなっている、ということを実感している。

テレビスターの悲劇

2017年にもネット広告への出稿がテレビ広告を抜くという記事があった。

その記事を読んで、いろいろ考えさせられる。

個人の嗜好に適した広告が表示されるというのは効果性が高いだろう。より広告費が伸びていくのだろうと思われる。

それはそれとして、そして、家電業界で大きな比重を占めていたテレビが終わるということを感じる。テレビがずっと家の真ん中にいた時代が終わりを告げようとしているのだ。居住スペース~インテリアが変わるのだ。テレビ台がなくなる。サザエさんによく登場した電話台が家庭では不要になったのと同じことだろう。

そういえばラジオはいつの間にか、終わったメディアになってしまっていた。AMにしてもFMにしても通販番組となってしまっている。テレビもその傾向が強い。

新聞にしてもテレビにしても広告とは切って切れなくて、効率的に効果的に知らせるための仕組みなので、モバイル化して個人に向けたネット広告には負けてしまうだろう。マスではない個人の嗜好にあわせたものには勝てない。

ラジオスターがテレビに殺されたように、ネットがテレビスターを殺すのだろう。