そこにいるだけで

なにかを考えていると頭の回転が高まり、思考の質が上がる瞬間がある。頭の中が整理されていくこともあるだろうし、自分の思いはこういうことだという、繋がりが生まれるからなのかもしれない。

話をしていると、自分の考えはそういうことなのだということを思い起こさせてくれたり、形を気づいてくれる人たちもいる。

気持ちの良い会話のキャッチボールができる。話しかけた内容がより高いレベルでかえってくる。人と関わっていることの一番の楽しいときである。閉ざされ自己完結ではないつながりの妙。

そこにいるだけで、力が引き出されてしまう組織を作りたいと考えて、いまの仕事に就いた。引き出されてという言葉には誤解が生まれるかもしれない。強制ではなく、あるいは押しつけではなくというところが重要だと思う。

そこにいると、チームや世の中にも貢献できるという思いを抱かせる組織やつながり。それは一番の喜びではないだろうか。

組織の所属するということではなく、組織と関わるということでもある。また組織も個人を所属下に置くだけではない。固い組織ではなく、柔軟かつ機動的で、壁がない。コロナ禍をこえて、そんな組織がますます求められていくのではないだろうか。

組織は機敏でなくては

規模を追求する風潮がまだ見られる。極言すれば規模さえ大きければー規模拡大が実現できれば勝利できるという考えだ。この時代であるので、データを集められるだけ集めることが出来れば勝利できるということにも同様の考えは通じる。

この一見正しそうな見立ては、実はものすごく妖しい思考だ。そもそも全てのありとあらゆる情報を手に入れられるはずはないし、手に入れるだけの手間と時間という費用対得られる成果は比例はしない。たしかに一データ単位あたりの入手コストは減少するかもしれないが、得られる価値とは必ずしも比例しない。すこし横道にそれた。ひとは何らかの安心感を得て、ようやく打って出ることが出来る。攻めるにはまず守りを固めてからということだろう。

巨大さを目にして、多くのものはひれ伏す。しかしその巨大さ故に、守らねばならない箇所であり致命傷となりかねない腱は増加する。責めるものが目利きできるならば、相手がノーガードであることに笑いが止まらないだろう。

組織には目的があり、その実現に向けて資源を利活用する。しかしその効率性には限界がある。その際足るものが組織階層という壁であり、業績管理単位という壁であり、地域や情報伝達の時間という壁である。ネットワークコミュニケーションということで、対応しようとすれば人と組織の数だけ、情報伝達のスピードは遅くなり、機動性が失われる。

組織は機敏に動き回らねばならない。小さいに限るのだ。巨大組織で会っても、小さく機敏な疑似組織を内在している例も見られる。巨大さへの対応手段として取り組む生物的勘なのかもしれない。

また小さな組織単位では、見える世界が限定される。そこで小さな組織であればあるほど、自己組織の持続を目的にするような行動だけではなく、目線をあげた先を見通した行動が求められる。

緊急事態宣言への対応から考える

緊急事態宣言が解除され、公立学校の授業が再開されるなど、ウイズコロナという状態が始まりました。ほぼ3ヵ月間の自粛生活で仕事のしかたや人との関わり方が大きく変わりました。そして6月1日から新たなステージです。

この3ヶ月をふり返ると、よくもまあ従来の習慣を捨てて取り組んだことだと思います。卒業・入学・入社、移動や異動。送別や歓迎。お花見やGW。観劇やスポーツ。すべてをやめて乗り切ってきました。いままでの常識を捨てて、対抗しようと首をすくめて、問題を乗り切ったわけです。考えてみれば、このような状態は普通ではありません。頭で考えれた計画であれば、実効性の困難さにはじめから取り組むはずがありません。

そう人は変化に対応することが出来るもの。あらたな考えや様式には慣れます。しかしはじめの変化には抵抗を示します。そのときに元の状態を維持しようとするか、抗えないものとして受け入れるか。受け入れるにしても、改善を付け加えて今までを維持しようとするか受け入れるか。コロナウイルスへの対応で、我々はとんでもない問題に対応しようとしています。考えれば、従来の仕事のしかたが一番効率的なことはわかっています。そのための仕組みを創り上げてきたわけです。否定したり、新しいものを取り入れれば、失敗や困難がついて回ります。

われわれは経営の状態が変化することは、理解しています。しかし変化には対応することは、心と体が着いていきません。話を飛躍させると、全てのものが変化に着いてくるはずがありません。そこで全てを変えるのか、変えないといけないところに焦点を当てて変えるべきところを変えるのか。

それは取捨選択という言い方でも良いだろうし、切り捨てという見方も必要かもしれません。全ての人を満足させることはできません。時には理不尽さもも求められます。経営者や組織の長は、そこを理解しなければなりません。

すぐれた組織とだめな組織は紙一重

組織を表現するものとして、規律の取れたというものがある。号令一下、組織全員が指示のもと決まった行動をとるというものだろう。これは優れた組織といえるだろう。一方自由な組織というものがある。個人が自分の裁量で必要だと思う行動を取るというものだ。これも優れた組織だろう。

どちらがより優れたものなのだろうか。どちらもが成り立つだろうし、どちらもが限定的である。指導者である他者の命令に基づいて行動するということと、自分の考えに基づいて行動するという、相反することが成り立つし、うまくはいかないというのが組織の面白さだ。

ただ、おのおのが成立して結果を出すための条件として、情報がオープン化されている必要がある。

指導者が正しい命令をするには、個別の状況を把握していないといけないし、個人が必要だと思われる行動をするには、自分のことだけではなく全体のことを理解しなければならない。個別最適か全体最適化という議論と同じく、昨今のシステムの考え方を巡る考えとも共通する。つまり統合するのか、分散した方が効率的かということにもなる。

全体を見た上で個別のことを考えるのは二律背反している。あちら立てればこちらたたずということだ。どちらかを優先するのではなく、全体のことを考えつつ、個別のことを立てるということになる。個人に現時点でのすべての情報を開示すれば、また指導者がおなじく現時点でのすべての情報を持っていれば、極めて合理的な行動を取るであろう。

合理的な行動を取れず意思決定が曖昧となるのは、つまりは情報の質と量そして時間に格差があるからである。限定されているという情報を前提とすれば、できるだけ現時点に近い多くの情報を各人が掌握して個別の判断に基づいて行動すれば良いということになる。

情報を開示もせず個人に自由に行動させる組織の行方は悲惨である。また指導者が限定された情報だけで行動する組織も哀れである。指導者も個人も善人であり、組織のことを思えば思うほど悲しい結果がうまれる。情報の開示と扱い方がまずは大切なこととなる。