経営の行方

経営はどのような姿になっていくのだろうか。いろいろ考えているが答えは出ない。

AIの時代に入ったことで、芸術的かつな感覚視点であった経営のあり方が、科学的かつ合理的に変化している。従来の経営が曖昧であったり、説明がつきにくい面があるという課題を持っているということはあろう。感覚的とは言っても傾向だとか流れを無視したものではないはずなのだが、なぜその方針なのか、その行動を取ろうとしているのかとか尋ねられると返答に困る程度のおもいである。思いつきと言われてもしかたないほどのものだ。

未来のことは誰もわからない・・・先のことはわからない。運命というものは誰かが規定したものではないだろう・・・たぶん。変化を規定する要因は非常に幅広く大きいので、コントロールできないのだが、前提条件が不変であるならば、こうなっていくという想定は可能である。きわめて限られた範囲での可能性でしかないから判断・意思決定の信頼性は薄い。

そこで走りながら考えることが一番優れた方策となる。走りながらだから、非常に忙しい。もう少し考える時間があればと思うだろうが、ごく短時間での判断こそが重要なのだ。つきつめていくと機械的判断と感覚的判断とでは、それほどの差はない。いずれにしても決定は一瞬のことで、考えているのか無意識であるのかがわからないからだ。その場の決定は時間の経過とともに優劣が明らかになるだろうが、ひとつの判断が未来の全ての結果の原因ではない。その他多くの要因が複雑に絡み合っているからだ。判断に統一性・一貫性があるとするならば、重層的な判断が違いを生み出していくのだろう。

こんな文章を書いているのは、ある日の夢があったからだ。経営について考えているようだった。議論している人たちがいて、板書の文字を見ると「統合学」という文字が記されていた。経営は統合なのかと妙に納得してすっきり目覚めた自分がいた。その後、「統合」という言葉をあたまのなかで揺籃させていたが、とくになにかを生むまでもなかった。そこが不徳の致すところで限界である。それでもあらためて考えると、絶対的に規定されたものではないから、さまざまな情報や学問を統合するということが経営なのだろうし、日々の生活が経営の世界と渾然一体であることから「統合」だよなと妙に納得している自分がいる。

日々の積み重ね

毎日なにかしらの記念日だという。ちなみに投稿日の10月2日は、「美術を楽しむ日」だそうだ。通り過ぎていく日々に意味があるということで、なにもないと感じる一日であってもそこには積み重ねの、そしてある人にとっては重要な一日であると言うことだ。そう毎日を大切にしないといけないということに気づかされる。

一日一日は大切で重要なのだから、通り過ぎていくありきたりな一日にしないために、いまをしっかり過ごさないといけない。

10月1日は東京証券市場がトラブルにより開かれなかったという大荒れの一日だったが、これも稼働することが当たり前というインフラのありがたさに気づかされる出来事だった。

そのときどきから学び、糧にしていくという姿勢が自分をつくる。

真理と向き合う

「哲学は、科学であり、究極に研ぎ澄まされて、追究した真理であり、他になにも付け足したり、削除するものも含まれていない」ヘーゲル、哲学史序説、岩波文庫

意見や感想は、真理には何ら影響を与えないという言葉の重さには、厳しさとともに潔さを感じます。真理というものの崇高さや純粋さには、ひれ伏さざるを得ません。一般的な議論は「画廊の阿呆」だとすら言っています。立ち向かおうとしたとことで一刀両断・瞬殺です。

周辺でうろうろしている見学者であるのに、知ったかぶりの評論家を気取って、「あーだこーだ」と意見を言いたくなったり、単なる自分の感想や意見を真実のようにとらえ、吹聴することの浅はかさや、怖さを指摘しているのでしょう。それでも自分の感想を持つとか、意見を言うのは、否定されるものであるはずもありません。どのようなことを言っても良いし、いろいろな角度からの意見があることは極めて健全なことだと思います。

哲学に限らず、真理を求めることは非常に困難ですが、真理をそのまま薄っぺらなままで受け止め、表面的に理解したり、まるで自分の意見のように吹聴することや、あるいは真理には到底到達できないので浅はかなままでありつづけようとすることは、画廊の阿呆ですらないわけで、感じ・受け止め・意見を交わし・批判をうけ・批判を行い、自分の考えをまとめ気づき、真理に近づいていく過程には価値があるはずです。

人生とはそんなものかと思う秋の一日です。

今年の夏は…

新型コロナウィルスの影響もあり、お盆休みで帰省する人や行楽の方も減っていますね。

今年はなにより身の安全を最優先です。体温を上回るほどの暑さが続きます。

くれぐれもご自愛ください。

物語の価値は不変

藤井聡太7段が新棋聖となられました。14歳中学生で棋士。29連勝。そんな超一流の人ですから、当たり前なのでしょうが、とうとうタイトルを獲ってしまいました。

小林秀雄が、突き抜けた名人クラスの勝負は、先手か後手かを競う勝負となるだろうと看破していたように、AIの機能が強化されれば、人間が知恵を絞るという勝負の意味合いは薄れ、興味が失われていくのではないかということがいわれた。

新棋聖は勝利後の記者会見で、「今の時代においても、将棋界の盤上の物語の価値は不変だし、自分としてもそういう価値を伝えていけたらと思う」という主旨を述べていた。実際の盤面の戦いを通じて、勝負事の世界で人が全知全能をぶつけ合って戦うことのすごさと面白さをみせてくれました。

しかし何なんでしょう、この言語力。勝ってうれしいだけのレベルには留まっていないという恐るべし17歳。

慣れる

ひとは大抵のことに慣れる。

緊急事態宣言で、従来の働き方ができなくなっている。テレワークの会社もあれば、時短や勤務時間をずらす動きもある。大変窮屈だ。

しかし自分はこれでないと駄目だと思っていても、大抵のことには適合する。それほど頑固なものではない。変われないと思っているだけだ。変わるコツは一つだけ。やり続けられるかどうか。

令和の世、始まります

新元号の「令和」を英語に訳すと” beautiful harmony “だと日本政府が発表しているらしいですね。世界が不安定で、グローバル化する中で独自性を強めている時代の中でいかに多様性を訴えることが出来るか。

資源がない国で地球環境に貢献し、価値を高められるか。世界に必要とされるための一歩を積極的に踏み出していくというのが、新しい令和という使命だろうと思います。自分自身も少しでも社会に役立つように、これまでの知識と経験を活かして、大いに変革を図りながら取り組んでいきたいと考えます。

8回目の3月11日

半世紀を生きてきた歴史の中で、最も衝撃的な出来事は東日本大震災である。頭の中では起こりえると考えていたけれど、実際に目の当たりにすることはないと思っていた。

自然の大きさに比べると、人間のあまりの小ささに嘆きを感じた一日だった。

それから8年が経過した。記憶があいまいとなっていく過程は、次に進むために必要なことなのだろうが、事実は消えることは無い。そして身体の中に染みついている、敬虔な気持ちは薄れることはない。

合掌